昭和50年09月09日 朝の御理解
御理解 第77節
「人の悪いことをよく言う者がある。そこにもしおったらなるだけ逃げよ。蔭で人を助けよ。」
蔭で人を助けると言う事は、なかなか出来ない事であります。まあ云うなら、縁の下の力持ちの様な事ですし、けれども段々信心を頂いて参りますと、そうしなければおられない。今合楽で皆さんが毎日お初穂をなさいます。中に自分の周囲周辺の方達の事、難儀な方達の事を毎日お届けをなさる方達が沢山あります。そして此処では、御神米を下げませんから、あれがね例えば、御神米でも下げますと、その御神米を貴方の事はお願いしましたと、言う風に持って行きますね。
そうするとお神米を頂いて有難うと言う事になりますけれども、誰も有難うと云うてくれないね、それを「かげんほこ」と言う。かげんほこになるごたるもんだと。けれども信心をさして頂いて自分の心の中に、言うなら親切な心、親が子を思う切なる心と言われるその親切な心。又はそれがこうじて神心。その神心が段々出来る様になりますから、それが赤の他人の誰彼の事であっても、願わなければおられない。如何にかげんほこになって有難うと言うて貰えんでも願わなければおられない。
こういうのを蔭で人を助ける事だろうと思うし、又今日のここん所で人の悪口を言うておる者がある。よく言うその本当に言われておる人の事を願い、又言うておる人の事を願う。そういう心の状態になったら素晴らしかろうと思うですね。悪口を言われておる人の事を願う、又悪口を言うておる人の事を願う。そう言う事が蔭で人を助ける事だと思う。ところが、人の蔭口言うたり悪口言うたりしておると自分も一緒になって蔭口を言うておったり、悪口を言うておったりしておる自分に気が付いて、本当に自分の浅はかな事に恥ずかしい思いをする事があります。
ですから私共がこの修行をさせて頂こうと決めたら誰でも出来る修行がこの七十七節です。本当に金光様の御信心は人の悪口ども言っちゃならん。もしそこにおったら逃げる。そして蔭で人を助けよと仰るから、悪口を言うておる人言われている人の事を願わせて貰う様な生き方をさして貰う事。是が金光様だ金光様の御信心だと分からせて頂いたら、それを本気で実行しようと思うたらすぐ実行出来る事。所が中々本気で思わない。
私はこの七十七節を頂かせて頂くとき何時も思う。皆さん何回聞かれたか分からんと思うのですけれども、北野の江口と言う所に日吉と言う方達が姉妹で参って見えよりました。昨日も一家中で朝参りに参って見えとりましたが、まだあの方達が椛目の時分に参っておられる時分の事でした、その門内の方と云う人が参って来たんです。ああ貴方は何処からですかと言うて、北野の江口ですとああ北野の江口でしたら日吉さん達御姉妹を御承知でしょうと言うたら、はあ門内ですからとこう言われるのです。
そしてその方が云うのにです、もうこの人達ばっかりは感心しますと言うのです。椛目の金光様に参り御座るとは聞いとったばってんこの人達ばっかりは本当感心したと。その村内の方が言いよりますと村内の者が。例えば婦人会なら婦人会で寄ってから、誰のかげぐちを云うたり、悪口を云うたりしよる。もうこの人達は決して人の悪口は言わっしゃらん。もうこれは村内の者が気が付く位にある。しかもいよいよ悪口が始まると、すれっとして何時の間にか何処にか、あのおらっしゃらんと。もう教えをそのまま実行しておられるなあと言うて。
私はそに時にお道の信心もまだ実に素朴な御姉妹ですから、難しいみ教えは解らないにしても、そういう金光様にお参りすりゃ人の悪口だん言われん。又は人の悪口だん出る時は出来るだけ、もし逃げられるならその場を逃げよと仰るから、この御教えなら私どんでん出来ん事はないと姉妹別々に所帯を持っておられますけど、出来ん事はないと云うので。それを実行しておられるのがです。村の人達が気が付く位にそれを徹底しておられると云う話を聞いた事が御座います。
おかげを受けます。心が助かるです。私は金光様の御信心はね、矢張り教えを本気で守ると云う事だと思うですね。人が悪口を云うと自分の事言われよるとじゃなかっても、耳傾けて聞こうごとある。蔭口でも言い御座れば、ジーッとこの襖の外から立ち聞きでもしようごとある。まあ人間にはそう云う事が確かにある様で御座いますけれども。そう云う事では、信心にならんと教えて居られるんですから、蔭で人を助ける働きに成って行く為に、先ず自分が悪口を言わん事を。
先ずその場を逃げられるごとあるなら、もうすれっとして、悪口を聞かんと云う様な生き方を身に付けたらです、成程神様も喜んで下さるだろう、そして蔭で人を助けると云う事になったら、もっと有難い事だろうと思いますね。昨日末永先生が、此処でお届けするのです。今朝方からお夢を頂いた。親先生と若先生それから末永先生本人と光昭先生、いわゆるここの二番目の息子です、と四人で何処か旅行を致しております。親先生と若先生は立派なお席に付いてお食事か何かなさっている。
所が私と光昭先生はこの上に荷物置く所がある、そこん所で窮屈そうにしてから、乗っておるお夢を頂いたが、どの様な事でしょうかと云うのです。私は飛行機に乗っておる事は、乗り物と云う事は徳と仰るから、もう合楽の場合はしかも高度なお徳の中にあると云う事でしょうね。高い所にあるそれに若先生と親先生は普通の席を頂いて、しかも何か食べておられると言う。所が私と光昭先生だけは、荷物置き場の様な所に上がって、窮屈な処に上がって旅をしておると言うのである。
それで私その事に付いて申しました。それはね私とか若先生は此処でなら同じ生活をさして頂いとりましても、何の屈託もなければ気兼ねもない。所がなら末永先生の様な家内も貰い子供も出来た。そして二階に一部屋頂いて生活をさせて頂いとるけれども、何とはなしに気兼ねな思いがあるのじゃないだろうか。なら光昭の場合であってもそうです。やっぱり弟息子と云う引け目、引け目と云う訳ではないでしょうけれども、それは若先生が住む以上の、今度新しい家が出来たんですから。
立派な部屋にしかも暖房冷房が付いたそれこそ、冷蔵庫が付いてもう本当に若先生の部屋よりも立派な部屋に住まわせて頂いておるけれどもです。例えて云うならば、冷蔵庫の中に持って行くビールとかサイダーとか持って行くと致しましょうかね、自分の好きな物でも冷やしとくと致しましょうか。けれどもねなんとなく気兼ねしながら持って行っている事ではなかろうかと申しました。あんたが場合でも別にあんた達がビール持って行ったりサイダー持って行ったりはしよらんけれども。
この前の月次祭の時にです、あの何か大変珍しいお饅頭を頂いとりました。そしたら公子さんが私の部屋にお客さんが見えとるけん、公子さんが奥様このお饅頭貰って行って良かでしょうかとこう云う。そりゃ良かくさい早う持って行って出しなさいとこう言う。やはり気兼ねしとるからそうなんです。自分所にお客さんが見えておる。だからこの饅頭少し貰うて行っても良いでしょうかとこう言う。サアサアここで同じ屋根の下で過ごさせて頂いて居れば修行生もなからなければ、家族の者も一様なんですここでは大体が。
けれどもなら本人達は息子でも、弟息子になるとそれだけ気兼ねをしとる。そういう意味の事ではなかろうかねと私が申しました。さっそこで末永先生私共は只今修行中と云う気になりなさいと私が云うのです。光昭なんかでもいずれか何処にか布教に出らなければならないだろう。末永先生一家も近い将来必ず何処かへ布教に出らなければならないだろう。その為に今此処では親子三人、云うならば修行さして貰うとるから。
そういう気兼ねはいらんけれども、だから気兼ねせんならん様な事はもうせん事に決めたら一番素晴らしかばいと私が申しました。例えば自分所にお客さんがあってもです、サアどうぞお茶一つ差し上げましょうと云うて、応接間を使うてよかれば食堂へ連れて来てもよいのだ。それば自分の部屋でしよるけん、如何にもこそこそしよるごたる風な、しよらんでちゃ、そういう気兼ねがあるのです。
だから只今修行中であると云うのだから、そげな事は気兼ねせんでよかバイと、云うのではなくて、気兼ねしなければならない様な事は、私共此処の部屋では致しませんと云う修行したら素晴らしかバイと私が申しました。修行生の部屋に行って、お茶を呑むと云う事が第一間違っとるのだ。そこでお茶菓子の一つ食べようと思うておるのが間違っておるのだ。と、云うて末永さんサアあんたの特別のお客さんが来たならば、それこそ学院生の友達なんかが来ます。親戚の人達が来ます。
そげな時には誰でん気兼ねはいらん。食堂であるものは出しなさい。食堂で家族同様に頂いて良いけれども、自分の部屋では例えば、そげな事はせんと云う様な気持ちになったらどうだろうか。どうだろうかではない。それは素晴らしい一つの修行生としての節度の様な事になる。そりゃ素晴らしい修行になるバイね。私と若先生はそれはもう当然の事として、自分の部屋にならどんな高級な洋酒を持って行こうが、どれだけビールを冷やしていようが、又飲もうが食べようが気兼ねがないけれど。
弟息子になるともうそれを、なら夫婦ながら、矢張り気兼ねしながら持って行きよるのではなかろうか。そういう事を頂いておる。そこでですなら気兼ねしもってなら持って行くのではなくて、一々断わり言うて持って行くのではなしに、それをなら黙って持って行くと致しましょうか。そしたらどう言う事になるかと、まあはっきり分かり易く、言うなら修行生の分在で我もんごとごろごろ持って行って、断わりもせんなと言うて、蔭口を言われるだろう、悪口を言われるだろうと言う事です。
私は今日はね悪口を言うてはならん。もしそこに居ったら逃げよと云う事だけれども、今日は私、悪口を言われんで済む様なおかげを頂くと言う事を、今日は聞いて頂いた。それにはね、気兼ねもってしなければならない事。また自分の分にはばか様な事をさして貰うと必ず蔭口を聞くです。悪口を言われるです。だからそういう気兼ねやら、自分の分に合わない様な事を、あの人だん金も持たんくせにそうな贅沢し御座ると、蔭口を言われるとしましょうか。
借金を負い被っといてから、昨日その話が出ました。借金負い被っといてから、とても何にもならん事に何十万も使わっしゃった、とても了見に及ばんと言う話を聞きました。悪口を言われよる訳です。だから言われんで済む事の為にです、分に応じた生き方をですさして貰えば、それこそ夢にも思わない様な出ける、言うならばそれが自由になされる。 気兼もなく出来れる様の、おかげの世界がそこにあると思います。それを気兼ねしもって、それをしようとしておる所に。
言うなら自分も助からないし、人に悪口を言われたり蔭口を言われたりせなければならない。蔭口を言うたり悪口を言うたりしたりしてはならない。又そこに居ったりしたら逃げよと、言う事を江口の日吉さん達の事を例に話しました。そこで今度は蔭口を言われたり悪口言われんで済む様な、もう本当にあの人達の生き方こそり立派な生き方をして御座ると、例えば言われる様な生き方をする為には。
気兼ねなとか自分には分に過ぎる様な行き方をしたり言ったりしておりますと必ず蔭口になる、悪口を言われる事になる。だから蔭口やら悪口を言われんで済む様な行き方を、末永先生が昨日頂いたお夢の中から聞いて頂いた。御理解にはそこはありませんね。悪口を言うなとか、もしそこに居ったら逃げよと言う事しかありませんけれども、今度は私共が悪口を言われる様な立場にあった時です。
それは人がとやこう悪口を言われてもね、神の比礼と言われる様なそういう悪口なら素晴らしい事ですよ。けど自分達の不行届きとか、不注意が悪口を言わせたり蔭口を言わせたりする様な事の無い様な、それとは反対に、あの人達の行き方こそ本当に手本だと、言うならばあぁ言う行き方こそ修行生の手本だと、あぁ言う生き方こそ金光様の御信心頂いとる者の手本だと言われる様な行き方をさせて頂くと言う事を聞いて頂きましたね。
どうぞ。